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インターネットにはとてもすべてをしっかりと味わえないほど大量のコンテンツが流通していて、その中で「いい話」があるとついつい「いいものを読んだ」気分になって「いいね!」を押すなりシェアするなりブクマするなりして素通りしてしまうのだけど、特にそういう「いい話」は出自がかなり怪しかったりすることが多い気がする。今回は本物っぽかったけれども、「感動できる」「泣ける」みたいなことを言われてるネット上のコンテンツは書籍から勝手に転載してるか多分に嘘を含んでるかだと思って読んだほうがよさそう。

ドーナツの中心みたいに、存在いない何かを「ある」と宣言できた人には、ものすごいお金が集まってくる。

医療においてはたとえば、「健康」というものは、「病気でない」ことで定義される。病気の定義は様々で、「病気でない」一定の状態を取り巻くように、「病気の状態」というものは、あたかもドーナツのように分布する。

ドーナツの真ん中には空間が、「病気でない状態」で漠然と存在していて、その中心にあるであろう、あるのかもしれない「健康」という状態は、医療では定義できないし、そこには実際、向かうべき中心なんて存在しない。

健康食品を売り歩いたり、あるいはアンチエイジングを唱える人達は、ドーナツの真ん中にある空間に、「ここが中心だ」という一点を指差し、叫ぶ。

中心がここと決まれば、「病気でない」空間で暮らす全ての人は、「中心からの距離」という序列が生まれる。序列ができて、誰もが中心を目指すことが正義であるという認識が共有されれば、中心に向かうための薬や指導、販売される食品は、莫大な富をもたらす。

 1つ実験をしてみましょう。後ろ足のひざの後ろをしっかり伸ばして歩いてみてください。それを10分続けながら、ネガティブなことを考え続けることができますか?

 ひざの後ろを伸ばすと、自然と背筋が伸びます。背筋が伸びると肩が少し後ろに引かれる感じになり、自然とあごと顔の向きが上がります。顔の向きが上がると当然のことながら 目線が上がりますが、目線を上げると、人間の脳の構造上、内面会話が確実に減るのです。

 これは「ストレスゼロ姿勢」のひとつです。実際、この姿勢は、多くの人にとってストレスを感じることが難しくなります。

 この姿勢のヒントをわたしはミラノのファッション業界のトップから教わりました。彼いわく、「町を歩いている多くの人の中で日本人はすぐ分かる。なぜなら日本人は歩くときに ひざの後ろが伸びていないんだ」そうです。

以前、小学校に入った年の子供がいきなり「もうこれから何もいいことが起こらないような気がする」と泣き出したのを聞いて、ぎょっとしたことがある。

クリスマスとお正月が過ぎ、三学期が始まったばかりの頃だった。楽しいことが終わって寂しくなったのか、学校で何かいやなことがあったのかと思ったのだが、その子はつぎの日高熱を出した。インフルエンザを発症したのだ。

大人であれば、風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」と表現したのだろうが、その「感じ」を六歳の子は、「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ身体と心が別物ではない、風邪に罹った身体の不調は、未来への不安として知覚されたのだ。

わたしたちは「言葉」を介して世界とふれあっている。わたしたちが目で見ているのは、「ものそのもの」ではなく「言葉」であり、「音そのもの」ではなく「言葉」であり、感覚といわれるものですら「暖かさ」「静けさ」「穏やかさ」という言葉を感じているのだ。だが、もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という言葉での分節を知る以前の赤ちゃんにとっては、何もかもが同じことなのかもしれない。

わたしは以前から眠くなった赤ん坊や幼児が泣くのが不思議でならなかった。眠たければ寝ればいいのに、何をいったいぐずぐず言っているのだ、と、眠くてぐずぐず言う弟を見て腹を立てたものだった。だが、彼にとっては、「痛い」のも「眠い」のも、あるいは母がそばにいなくて「不安」なのも、全部同じものとして感じられているのかもしれない。眠くてぐずぐず言うのを、母が抱き取って「よしよし、眠いんだね、ねんねんよ」ということで、「眠い」という分節を知り、転んで泣き叫ぶのを「よしよし、痛かったんだね、お薬をつけようね」と言いきかせて「痛い」という分節を知る。「言葉」を使うこととふるまうことが一緒に示されることで、赤ん坊は言葉の世界に入っていく。そうして言葉の使い方をある程度は知っている六歳の子は、その不安=不調を言葉でそう表現したのだ。

言葉の世界の住人であるわたしたちは、もはや言葉によって分節されなかった世界がどんなものか、想像すらできない。「わたしの身体」「わたしの手」「わたしの足の指」などというように、そんな「身体」を所有している「わたし」が身体とは別にどこかに存在しているかのような気持ちでいる。

けれど、疲れているときのものの見方は疲れていないときとはちがうし、アグレッシブな音楽を聴いていると、自然と気持ちは高揚する。気持ちに対しては嘘はつけても、身体をだますことはできない。風邪を引いたりしたときは、おそらく身体が真っ先に気づくのだ。けれど、言葉で身体と意識を隔ててしまっていると、言葉を使わない身体の声は聞こえない。身体の声を聞く回路というのは、おそらく大人になってしまえば、意識的に作り上げていかなければならないものなのだろう。

批評を正当な理解だなんて思ってしまったら芸術は終わりなんじゃないのかな。ですから私は、理解されかけたと思ったら、もっと煙に巻く構造を持った作品を手がけています。「理解される」とは「底が見える」でもありますので。
芸術は「ここには何かがありそう」というその何かをできるだけ遠くまでつなげて味わうもので、完全に説明できてはミもフタもないでしょう? 宗教もそうですよね。「神は存在します。以上」と言い切ってもつまらないですから。
この本物と偽物の区別などはまさにいま僕らが失い/疑いつつあるものそのものだろう。 そして、それはテクスト偏重の思想の終焉だともいえる。 だが、それを真に終わりにしたいのであれば、僕らはきっと18世紀の啓蒙思想に生きた人びとの道のりを逆にたどり、豊穣な視聴覚的エンターテイメント表現を再び手に入れなくてはならないのだ。